かつて東京都区内に張り巡らされていた都電網は廃止され、地下鉄やバスに置き換わっていますが、都電荒川線だけは残されました。なぜ荒川線は生き残ったのでしょうか。

東京都電は、モータリゼーションの到来で深刻化した交通渋滞と、赤字公共事業整理、そして、都営地下鉄の整備を背景に、1967年より相次いで廃止されていきました。当初は全廃される予定でしたが、現在の荒川線となる線路だけは残されることになります。
その理由は大きく4つあります。
都電荒川線が残された理由
①まず、他の路線と違い、専用軌道が多かったこと。併用軌道の区間は熊野前~小台間、王子駅前~飛鳥山間、巣鴨新田~向原間の合計約1.7キロのみ(全体の1.4%)で、しかも一般の自動車と併用する区間は王子駅前~飛鳥山間のみです。つまり、道路交通を阻害するどころかむしろ補う形になります。また、並走する明治通りの渋滞が深刻で、路線バスの定時運行が難しいこともありました。そんな中、定時運行が可能だったこの路線は黒字が続いていました。


②次に、専用軌道がほとんどであるため、全線を代替する道路がなく、バスへの置き換えが難しいことが挙げられます。つまり、荒川線の利用者は廃止されるとバスを乗り継ぐ必要があり、不便になります。

③さらに、地下鉄にも代替しづらい路線でした。地下鉄は郊外と都心を結ぶべく放射状に敷かれていきましたが、荒川線は都心に直通せず、旧東京市域のまわりをぐるりとまわるものであったため、地元の生活路線としての性格が強く、地下鉄の整備網の対象とはなりませんでした。むしろ、それらの地下鉄を補ったり繋いだりする役割を担ってきました。

④また、存続を希望する都民の声も多くありました。乗客が多かったことに加え、都電の走る風景が失われつつある中で、古き良き東京の交通をなんとか残したいという思いが多く寄せられました。そんな中、電気で走る都電は低公害だとして当時の美濃部知事の一声で存続が決まります。
そんな荒川線はもともと、赤羽から三ノ輪橋までを走る都電27系統と、荒川車庫前から早稲田までを走る都電32系統という2つの別の路線でした。

27系統の赤羽から王子駅前までの区間は併用軌道であったため、バスによる代替となり、都営バス「王57系統」が設定されました。その後、営団南北線が走るようになります。終点の赤羽停留所は赤羽駅前ではなく、現在の赤羽岩淵駅あたりにありました。


その後、両路線は一体的に運行されるようになり、「荒川線」と呼ばれるようになります。担当部署の「荒川車庫」からとって「荒川線」としたようです。

なぜ専用軌道ばかりなのか
それではなぜ荒川線は専用軌道がほとんどなのでしょうか。
荒川線は東京市に買収される前は、王子電気軌道という私鉄の路線でした。王子電気軌道は、製紙工場や飛鳥山の桜で栄えた王子を中心に路線を伸ばします。当時沿線一帯は東京市の外側、北豊島郡で、特に尾久村などは田園地帯も広がるエリアであり、比較的容易に路線を敷設できました。私鉄であるために東京市内に入ることができず(※市営交通市営主義(市営モンロー主義)から東京市議会の反対にあう)、なんとか山手線の内側に入り、市境のすれすれを通って面影橋、早稲田に至ります。

そんな比較的長閑なエリアが多かったため、既設の道路上に敷くよりも、新たに土地を取得したほうがかえって工事費が削減できるということで、専用軌道がほとんどとなり、それが現在まで存続できる理由となりました。
同じく軌道法(路面電車のような電車)でスタートした京王や京成なども専用軌道がほとんどの路線で、王子電気軌道もそういった郊外電車の一つとして生まれたと言えますが、後に全域が東京都区内に入ったために、都電としての人生を歩むことになります。
実際、王子電気軌道は当初は早稲田ではなく新宿を目指しており、面影橋から直進して、京王線の前身である京王電気軌道の当時の起点・新宿追分(現・新宿三丁目駅)で、京王線に乗り入れる計画だったようです。

そんな荒川線は王子電気軌道以来、100年以上の歴史を誇ります。今後も都民の貴重な財産として長く運行され続けることを願います。






