かつて、JR中央線の三鷹駅からは国鉄武蔵野競技場線という路線が伸びていました。
武蔵野競技場線は三鷹駅から西側に伸びて北側に向かって分岐し、3.2キロ離れた武蔵野競技場駅までを結ぶ路線で、中央本線の支線という扱いでした。途中駅はなく、単線の電化路線でした。武蔵野競技場駅には「東京スタジアムグリーンパーク野球場」という競技場が整備され、そのアクセス路線として誕生しました。1951年に開業し、8年後の1959年には廃止となりました。
武蔵野競技場線はもともと、旧中島飛行機武蔵製作所への引き込み線跡を利用して建設されました。引き込み線は武蔵製作所から三鷹駅ではなく武蔵境駅から伸びており、中央線と接続して軍事物資を運搬していました。広大な武蔵野製作所は戦後、武蔵野中央公園やNTTの施設、武蔵野市役所、そしてグリーンパーク野球場となり、引き込み線も武蔵境駅ではなく東京方面から乗り入れしやすい三鷹駅を起点に武蔵野競技場線として整備されました。ただ、当初もくろんでいた球場のプロ野球の誘致に失敗し、電車の運行も初年度のみとなり、球場の解体とともに廃線となりました。球場は日本住宅公団が買い取り、武蔵野緑町パークタウンというマンション群になっています。また、廃線跡は緑道や公園となり、その形状に痕跡を残しています。
そんな廃線跡を実際に歩いてみました。
三鷹駅北口にやってきました。三鷹駅は玉川上水の上に建てられており、玉川上水に沿って北東が武蔵野市、南西が三鷹市と、自治体が分かれています。
三鷹駅北口から線路沿いに西に向かいます。玉川上水の美しい木々が見えてきました。
線路沿いをしばらく進むと、有名な「三鷹跨線橋」が見えてきます。1929年に建てられて以来そのままの形を保っており、太宰治に愛されたことで知られています。しかし、残念ながら耐震性の問題から撤去が決まりました。
「三鷹跨線橋」について詳しくはこちらをどうぞ。
三鷹跨線橋の上から西側を見ると、右手に線路が分岐しているのがわかります。現在は保線車両の留置線になっているようですが、昔はここから武蔵野競技場線が伸びていました。
分岐していた線路の先を辿ると、遊歩道があります。ここから武蔵野中央公園までは、ほぼ遊歩道や公園として廃線跡が残されています。玉川上水を挟んで三鷹市内の遊歩道は「堀合遊歩道」、武蔵野市内の遊歩道は「グリーンパーク遊歩道」、そして「グリーンパーク緑地」となっています。
まずは堀合児童公園という公園があります。公園の左手をまっすぐ進みます。
「堀合遊歩道」のはじまりです。遊歩道は廃線跡に沿って緩やかに北にカーブしていきます。そばの建物もそのように曲線を描いています。
ここから武蔵野中央公園まで、廃線跡には木々が多く植えられており、美しい空間が続きます。
各所に敷地境界標が建っており、「工」のマークが書かれています。国鉄を表すマークです。
堀合遊歩道は緩やかにカーブしながら北に向かいます。ちょうど木々が色づく頃でした。
堀合緑地は途中道路に阻まれながらもひたすら続きます。三鷹市のコミュニティバスのバス停がありました。そのほかこのあたりでは関東バスや西武バスの路線バスが多く走っています。
住宅地に加えて、畑地も見えてきました。
昔からありそうな杭が。鉄道用地と私有地を隔てた当時のものかもしれませんね。
連雀通りとの塚交差点から続く新武蔵境通りが隣に合流してきます。武蔵野競技場線が走っていた時代にはこの道路はありませんでした。この道路は途中伏見通りと名前を変えて廃線跡と終点近くまで並走します。
玉川上水が見えてきました。ここから先は武蔵野市です。
玉川上水に架かる歩道の橋「ぎんなん橋」にレールが残されています。この橋は2012年に整備されたものですが、かつての武蔵野競技場線、そして中島飛行機武蔵製作所引き込み線を偲んでデザインされました。ちなみに隣の車道の橋は「いちょう橋」。
現在の橋は近年整備されたものですが、武蔵野市が設置している案内板を見ると、この橋の下に中島飛行機武蔵製作所引き込み線時代の橋台が残っているそうです。当時の構造物として貴重ですね。
しかし草に覆われていてよく見えませんでした。
左手に、東京都水道局の境浄水場が見えてきました。この浄水場へも引き込み線があったそうです。浄水場への引き込み線は武蔵境駅から伸びており、西武多摩川線(旧多摩鉄道)から運び込んだ濾過用の砂利を武蔵境駅で受け取ってこちらへ持ってきていたそうです。
武蔵野市内に入ると、廃線跡の遊歩道の名称が「グリーンパーク遊歩道」に変わります。遊歩道は緑豊かで心地よいです。
緑道と垂直に交差する玉川上水もまた緑豊か。
新武蔵境通りと最も接近する区間です。この道は西東京市まで続いています。
井の頭通りと交差します。ここには踏切が設置されていたのではないでしょうか。井の頭通りはもともと水道管を敷設するための施設用地として存在し、道路としても使われるようになったものです。水道管は明大前駅付近の和田堀給水場まで続いています。
ちなみに「グリーンパーク」とは、かつて中島飛行機武蔵製作所を接収した進駐軍が用いていた地名です。その名称がこの遊歩道に残っています。また、かつて「グリーンパーク」だったところの多くは現在は「緑町」という地名になっています(それ以外は八幡町)。
グリーンパーク緑道を抜けて「グリーンパーク緑地」に着きました。遊歩道よりも広い敷地があります。グリーンパーク緑地は2か所あり、手前の現在いる方は「グリーンパーク緑地(関前)」。左手には遊具等も置かれていました。
このあたりには高射砲や機関砲の陣地があったそうです。中島飛行機武蔵製作所周辺には激しい空襲が続けられましたが、高射砲ではそんな航空機を打ち落とすことはできなかったとか。
武蔵野競技場線の廃線跡は続いて「関前公園」となり、なおも続きます。関前公園は水場が多く設けられており、トンボのヤゴが棲んでいるとのことでした。子どもたちの良い遊び場であることでしょう。春には桜が咲くそうです。
関前公園が終わると再びグリーンパーク緑地となります。もう一つのグリーンパーク緑地である「グリーンパーク緑地(八幡町)」です。
再び当時のものと思われる鉄道柵を見つけました。鉄道用地と民家を隔てる一部分にだけ残っています。錆びていますが、立派。
グリーンパーク緑地の中ほどに道の分岐点があります。これは中島飛行機武蔵製作所引き込み線と武蔵野競技場線の分岐点です。中島飛行機の引き込み線が左で、競技場線が右です。中島飛行機の引き込み線の方はこの先は残されていません。
案内板も設置されていました。武蔵野市は地域の歴史を広く伝えることに非常に熱心で、感銘を受けます。
前述の通り、中島飛行機武蔵製作所引き込み線は武蔵境から伸びていました。また、境浄水場へも武蔵境から伸びていました。武蔵境で接続する西武多摩川線から濾過用の砂利を運び込んでいました。
引き込み線の方の廃線跡も歩道として続いています。この先武蔵野中央公園まで接続しています。引き込み線は現在の武蔵野中央公園にまっすぐ突っ込むように続いていました。
私は武蔵野競技場線の方を進んでいきます。廃線跡はこの先右に大きくカーブしていきます。
廃線跡は道路を挟んで武蔵野中央公園の南口に入ります。公園をかすめるようにして、現在「武蔵野ガレリア」というマンションがある場所に続いていました。
公園内に入ってからも一応廃線跡は構造的に残されています。この木立の中を進んでいくと道があります。
この公園の端の道が廃線跡です。
終点の武蔵野競技場駅はこの武蔵野ガレリアのあたりにありました。駅の遺構は残されていません。立ち入りは控えます。
最後に、現在UR都市機構武蔵野緑町パークタウンとなっている、武蔵野グリーンパーク球場跡地を見にいきます。武蔵野競技場駅から北に進むと、案内板が設置されていました。団地の構造もかつての球場を思わせる円形の構造を有しています。
隣には、武蔵野市役所があります。ここまで中島飛行機武蔵製作所の跡地でした。
広大な軍事施設であった中島飛行機武蔵製作所が戦後球場となり、しかしうまくいかずにマンションになったという歴史を知るとともに、遊歩道の豊かな自然を感じされる素晴らしい廃線跡でした。美しい遊歩道や公園として残してくれた三鷹市や武蔵野市に感謝したいと思います。当時の実際の遺構は少ないですが、歴史を記録しつつ現代に生きる住民の利益に適った使い方がされていると思いました。
3.3キロはお散歩にもぴったり。途中に当時の遺構やレールを見つけながらゆっくり散策してみるのはいかがでしょうか。ぜひ楽しんでみてください。